「老いについて」IT仲間に「老いについて」毎日BLogに投稿している方がいます。先のことは考えたくないですが、現実何もしなくも歳はとります。歳を重ねるにもいろいろと感じます。その中に真剣に「老いについて」述べている内容を紹介します。■今を生きる
年をとるをということは体力・知力やその他いろいろなものを失い、それまで積み重ねてきた経験や知識が役に立たなくなることです。「ヒーリング」とか「癒し」という言葉があるように心のありかたが問われます。今ある自分を見つめ今を大切に生きなければなりません。肉体的にも精神的にも衰退と変化に耐える努力をしなければなりません。時間が自由に使えるのは幸いです。
■老後の一日
きのうはなにをしたのだろう?起床に始まって、散歩、朝食、新聞、ブログ書き込み、メールのチエツク、昼食、テレビ、昼寝、散歩、夕食、入浴、メールの整理・送受信、就寝という何の変てつもない一日だった。昨日ばかりでない、一昨日も、その前の日も同じ、人との交流や、外での活動は殆どない単純な行動だ。ただ漫然とどうしようもない生きかただ。「長らへて生けるをいかにもどかまし憂き身の程をよそにおもはば」と古今集に詠われている。年をとったからとて、このような日課を繰りかえし嘆息し安住していられない、生活の中心になる新しいなにかを発見しなければならない。
■今日を生きる
田能村竹田は「一昨日死ぬることなく昨日をむかえ、昨日死ぬることなく今日をむかえ、今日も死ぬことなく明日をむかえるのだ。こうして人間は、死ぬことなく日また日と、踏み越え踏み越え、今年の三六○日、一日一日を充実して生きてゆかねばならない」と竹田の “芸術と人間”観を述べています。わたしはこれまでなにもしないで、ただ平凡に生きてきました。なにか充実させようと努力することもなく年を重ねました。これからもこれまでの生き方をして明日をむかえるのだろうと思います。
■敬老の日
今日は「社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」という趣旨の敬老の日です。私は暦の上で高齢者の部類に入ります。老人ですが人に敬われるようなことは何ひとつもしていません。年を重ねただけです。古代ギリシヤは老人が少なくネストールのような賢人はあたりまえですが、老人はだれでも 積み重ねた知識と経験から尊敬されました。現代日本人は長寿、街を歩いていてもどこへ行っても老人と出会います。元気な老人が多い社会です。しかし 日本の老人は「非生産人口」とか「従属人口」という人口統計にひとまとめに分類されています。仕事が終わり職場を離れ社会から疎遠になり孤立し、自分はもう無用な存在だという感情におそわれるような分け方です。働きながら成果をあげることが第一だという考えから、そんな言葉が使われるのでしよう。敬老の日こそ老人を骨董品のように棚上げし尊重することはやめて欲しい。老人は自分は引退してしまった大人と見なさずに、今日の社会を築いたのは自分達であり、それは次世代に残す創造でもあったという誇りを持ち、これからも社会の役割のにない手として評価されるような秘策を自分で発見する日にしなければならないと、私はここ数年敬老の日に思うが、考えるだけで具体的な取り組みはなにもしていので残念です。
■エイジングという言葉
高齢社会のせいか老人とは何者かという、いろいろな説があります。私は前期高齢期(65歳から75歳)の範疇に入るのかと、ひとつの高齢者という人間の分類を眺めています。暦の上で年が重なると、この年齢になると「加齢」と云われます。加齢すると知力・体力が衰退するので「老化」と云われます。そしてなにもしないで瞑想していることが「老い」らしい。瞑想することは自分を見つめることですから、心の持ち方を追求する時間ということになるらしい。「老い」は、それこそ 短くとも 考えて、なにかを作り出す時間かもしれない。
■老いのありよう
年をとっても生きているかぎり世間のしがらみや、なんとかしなければならないことが結構多い。できないことはできないけれど、できるように努力することが楽しみだと思う。養生訓には「心楽しく残躯を養う」のなかで『老後は、わかき時より、月日の早き事、十ばいなれば、一日を十日とし、十日を百日とし、一月を一年とし、喜楽して、あだに日をくらすべからず。つねに時・日をおしむべし』と云う
- 2005/10/09(日) 22:38:53|
- ◎仲間との懇談|
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